南米旅行から10年あまり過ぎた。その間の南米を外からみていると、大きく変わったようでもあり、あまり変わっていないようでもある。ほとんどの国でデノミが実施され、通貨単位が変わった。ペルーはインティからソルに、ボリビアはペソからボリビアーノに、アルゼンチンはアウストラルからペソに、ブラジルは何回変わったか知らないが今はレアルになっている。
90年代初めのようなインフレもなくなった。アルゼンチンは1ペソ=1ドルの固定レート制を導入したから、最近の旅行者は「アルゼンチンは物価が高くて」とこぼす。とはいっても経済がペソと同等に強力になったなんてことは断じてない。90年代前半にはカバロ経済相が辣腕を振るって景気はいったん回復したが、2000年末には危機的な状況となってIMFからの支援を仰いだ。ブラジルも99年初めに金融危機に陥り、一時期世界の金融市場を揺さぶった。私の行かなかったエクアドルでも、99年から2000年にかけ経済危機が起きて非常事態宣言が出された挙句、無血クーデターで政権が交代。同国通貨のスクレを廃止して米ドルを使うことになった。私の愛する南米は、表面上の変化はあるにせよ、依然として劣等生のまま変わっていないような気がする。といっても、日本もバブル崩壊後の「失われた10年」と言われているぐらいだから、あんまり外国の批判もできないけど…。 驚いちゃうのは、10年前に話題を集めていた2人の大物、チリのピノチェト元大統領とペルーのフジモリ前大統領が今でも新聞の紙面をにぎわしていること。10年前には予想もつかなかった。
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●独裁者ピノチェトへの追求
ピノチェトは、73年に軍事クーデターでアジェンデ政権を倒してから17年間も軍事独裁を続けた。さらに長期独裁を目指したものの、国民投票で否決され、私がチリにいた90年3月に退任。チリはようやく民政に移行した。退任直前の90年2月、チリ中部のプエルトモンという町で最後の遊説に来ていたピノチェトを見かけたが、労をねぎらおうという市民よりも警備陣の人数が多いぐらいで、いかに国民から嫌われているかを実感した。白い軍服姿が寒々しく、死に装束のように見えた。宿の親父は「ピノチェトなんてあんな奴、死ねばいい。あんな奴の写真を撮ったなんて、わざわざ日本からきてあんたも物好きだね」と吐き捨てるように言った。
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1990年3月11日、17年ぶりの政権交代の日、物好きな私は式典を見物しにサンチャゴの大統領宮殿まで出かけた。市民は「自由万歳」「チリ万歳」という垂れ幕を掲げて大統領宮殿に押しかけ大賑わい。ピノチェト時代、反政府運動に関わった左派の活動家や市民は容赦なく連行され拷問・虐殺されたという。たとえば自由を訴えたシンガーソングライターのビクトル・ハラは、曲を作れないように両手を切断された上で殺害された。そうした17年間の恐怖政治から開放されるとあって市民の顔は明るい。エイルウィン新大統領の就任演説が終わっても、チリ国旗を降りまわして「自由万歳」と叫びながら大通りを練り歩く市民は多かった。
すると、大通りの向こうから装甲車がやってきて水をまき始めた(ように見えた)。市民は逃げ惑っている。私はしばらく見物していたが、いきなり息が苦しくなり、むせ返ってしまった。装甲車がまいているのは、水ではなくて催涙ガスだった。お祭り気分の市民になぜそんな仕打ちをするのだろう。混乱した。市民は逃げ惑うだけではなく、しばらくすると歩道の敷石をはがして装甲車に投げたり、バリケードを作って装甲車の行く手を遮ったりして反撃に出始めた。あたりは騒然。大通りに面した商店はあっという間にシャッターを閉めている。私はグズグズしているうちに装甲車と投石している人たちの間に取り残されてしまい、全く知らないおじさんが手を引いて助けてくれたので非難することができた。目が痛くて、開けていられなかった。
騒動は1時間近く続いただろうか。装甲車が去ったあとは液化したガスで雷雨の後のような水溜りができ、回りビルの窓ガラスが滅茶苦茶に割れていた。人々は慣れているのだろう。何もなかったかのような顔で散り散りに去っていった。チリが本当の民主主義を回復するにはまだかなり時間がかかりそうだなぁと思った。その翌日、私はチリを後にしてアルゼンチンに入った。それ以降、チリには行っていない。
チリが民政に移行したあとも、ピノチェトの特権的な地位に何ら変わりはなかった。政府は96年になって初めて、軍政時代の反政府活動による死者・行方不明者が3197人に上ったと発表したが、ピノチェトは責任を問われることもなく98年3月まで陸軍司令官の座に居座った。その後は終身上院議員となって在任中の行為に対する刑事免責特権を手に入れた。
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| 催涙ガスに投石で応戦する市民 |
そんな絶対権力のピノチェトにも盲点があった。海外の司法当局による追求である。98年秋、ロンドンに滞在していたピノチェトはロンドン警視庁に逮捕された。ピノチェトの大統領在任中にチリで殺害されたスペイン人について捜査していたスペイン当局が、ピノチェトの身柄引渡しを英当局に要請したためだ。ピノチェト側はチリ国内での免責特権をタテに釈放を請求したが、英国の治安裁判所はピノチェトの逮捕を合法とする決定を下し、チリと英国との外交問題にまで発展した。
とっても残念なことに2000年1月、ピノチェトは釈放されてチリに帰国した。健康状態の悪化が理由だった。英国では車椅子でぐったりしていたピノチェトは、チリに帰国するなり立ちあがって元気そうに家族と抱擁していたから、世界のメディアは「英当局はピノチェトの仮病にだまされた」と書きたてた。
ところが、海外でのピノチェト追求の動きは決して無駄ではなかった。チリ国内でもピノチェトの犯罪行為を糾弾する声が強まっている。サンチャゴ高裁は2001年1月末、ピノチェトを殺人・誘拐の罪で起訴するとともに、自宅軟禁を命じた。ピノチェトは今85歳。健康状態をタテにとって追求を逃れる構えだ。なんでもう少し早くピノチェトの追求を始めることができなかったのだろう。でも今からでも追求しないよりはまし。これからのチリのためにも過去を総括し、ピノチェトの行為は犯罪だったということを国内外にはっきり示して欲しい。それでようやく本当の民主主義が回復できるのではないだろうか。
●フジモリの亡命
もう一人の大物は、ペルーのフジモリ前大統領だ。この人の10年間も毀誉褒貶に満ちていた。私は90年の1月に初めてフジモリの選挙ポスターを見たとき、「cambio90」という政党名(cambioは英語のchange)から、両替屋のオヤジがいつも「カンビオ、カンビオ」と迫ってくるのを思い出して、両替屋の宣伝かと思ったぐらいだった。それが4月に再びペルーに戻ってきたら、「両替屋のオヤジ」は「大統領の有力候補」になっていた。特に田舎町での人気はすさまじく、私が日本人だとわかると「フジモリ、フジモリ」と握手の手を差し伸べてくる人も多かった。
そのフジモリが、あれよあれよという間に本物の大統領に就任してしまい、日本でフジモリ・ブームの旋風が吹き荒れたことは「その2 南米経済事情」で書いた通り。就任後しばらくのフジモリは、大方の予想を超える活躍をした。90年のインフレ率は最終的に7650%に達したが、公共料金や燃料の値上げなどのショック療法によりインフレの抑制に成功。過去数年、インフレ率は1ケタ台に落ち着いている。
テロリスト対策でも、92年に毛沢東主義者のゲリラ集団、センデーロ・ルミノソの最高指導者アビマエル・グスマンと、カストロ主義者のツパク・アマル革命運動(MRTA)のリーダーを逮捕するなど、田舎の大学教授出身にしては辣腕を振るった。それだけではない。自然災害があればゴム長をはいて現地を視察し、現地住民の直訴を聞くなどのパフォーマンスも結構評価されていた。
ところが90年代後半になると、風向きが変わり始める。95年末から96年春にかけての日本大使公邸人質事件は、武力突入で予想外の結末となった。このとき私はニューヨークにいた。夕方の4時ごろだったか、CNNが生放送で伝える武力突入の模様を見て、まるでスパイ映画をみているかのように感じた。日本人の死者が出なかったため日本では「終わり良ければすべてよし」という感じでフジモリに感謝する空気が強かったけど、平和解決に向けて努力していた赤十字国際委員会をはじめ海外ではフジモリへの不信感も強く、事件の解決方法についての評価には格差があったように思う。フジモリはこのころから、憲法の解釈を無理やり捻じ曲げて大統領を3期務められるようにしたり、カソリック教徒のくせに夫人と離婚したりと、好き放題やり始めた。閣僚の更迭もしょっちゅうで、いつしか国民はそっぽを向き始めていた。
多分フジモリは怖いもの知らずになっていたのだろう。やめときゃいいのに2000年の大統領選挙にも立候補して元世界銀行顧問のアレハンドロ・トレドと対決し、三選した。それからのフジモリはいいところなし。腹心と言われたモンテシノス前国家情報部顧問が野党議員を買収しているビデオが流出したことから、非難の矛先はフジモリにも向けられた。
そして2000年の暮れ、フジモリは日本に亡命した。亡命するとしたら、日本以外に考えられなかっただろう。10年前、大統領になっただけであれだけ大騒ぎしてくれ、両親の出身地である熊本県のどこかにはフジモリ・ロードまで出来たと聞く。自分の在任中に経済援助もたくさんしてくれた気前のいい国だし、大統領公邸人質事件の解決で、日本には貸しがある、と思ったのも無理はない。しかし、10年前にフジモリ・ブームに沸いた人たちはどうしているんだろう? フジモリの亡命を手放しで歓迎したんだろうか? まさか。でも、出て行けとも言えないよね。そこが悲しき日本人。100%ペルー人のフジモリは、日本人のそういう弱みをちゃんと知っている。日本政府は「亡命」という言葉を一切使わず、フジモリに「日本国籍があることを確認した」として、フジモリの日本滞在(すなわち亡命)を認める格好になった。
結局、正しかったのはフジモリが大統領になったときに、フジモリが失敗した場合の反動を警戒していた日系人たちだった。最近のペルーでは、フジモリ憎さから日系人へのいやがらせも起きているというし、日本からの観光客は激減しているらしい。最初にフジモリへの支持をためらっていた日系人たちは、日本で「フジモリ大統領は曽野綾子さんの別荘に向かう際、イカのリングフライといなり寿司をコンビニで買いました」なんて報道されていると知ったら、なんて言うだろう? よけいなお世話かもしれないけどちょっと聞いてみたい。
独裁者とヒーローは紙一重。ピノチェトもフジモリも、壊滅的だったチリとペルーの経済を立て直した手腕だけは評価してあげたい(ピノチェトが軍事クーデターで倒したアジェンデ政権は、選挙で誕生した世界初の社会主義政権だった。銅などの主要産業の国有化政策が失敗し、クーデター前の経済は危機的な状況だった)。2人とも引き際さえ間違えなければ、それぞれの国で歴史に残るヒーローになれたのに、権力にしがみついたばかりに極悪人のレッテルを貼られてしまった。これから10年後、2人の評価はどうなっているだろう? (たぶんピノチェトはもう生きていないだろうけど)またがらっと変わっていたりして。楽しみだ。→番外編 ニューヨーク居候生活に進む
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