●桃源郷フンザ

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フンザのことを初めて聞いたのは、最初の海外1人旅でアメリカに行った大学生の時。西海岸に住んでいるいとこから、世界で一番行きたいところはフンザだと聞いた。初めて聞く地名だった。彼女はテレビで「パキスタンの北部に不老長寿の桃源郷がある」と聞いたという。「世の中にはそんなところもあるんだ」と思ったことを覚えている。カラコルムハイウェーは当時、外国人観光客にまだ解放されていなかったから、日本でもフンザのことを知っている人はあまりいなかったと思う。 |
| 泊まった宿のテラスから毎日見えた景色 |
それから十数年、フンザは日本でも随分有名になった。海外旅行に興味のない人でも「風の谷のナウシカ」の舞台になった所と言えば、たいてい「あぁ」と納得してくれる。フンザに行った友達もたくさんいる。不思議なのは、フンザに行った人が皆、フンザを好きになってしまうこと。フンザの悪口を言う人を見たことがない。そして私もご多分に漏れず、フンザのファンになってしまった。
フンザの魅力って何だろう。眺めがいい。人がいい。だから居心地がいい。文字にすると、どうも陳腐になってしまう。フンザには結局5泊したが、毎日何をするわけでもない。目の前には青々と広がるアンズの木々。その向こうに茶色の山々を前景として真っ白なラカポシ(7790m)がそびえ立つ。日の出、日中、日の入りと、少しずつ表情を変えて行く景色を眺めながらのんびりと読書をしたり、ぶらぶらと散歩して村の人と会話したりと、贅沢な日々を過ごした。4月下旬にはあたり一面アンズの花で谷が白く染まるという。さぞかし美しいことだろう。ぜひ見てみたい。
背後にあるのは切り立った山々。山々の手前、フンザの中で一番高いところにある建物はバルティット・フォートだ。フンザは1945年までミールと呼ばれる族長?が統治していて、1974年まで一定の自治権を認められていた。バルティット・フォートはそのミールが住んでいたという。背後にある岩山には氷河の雪解け水が一本の筋のようにしたたり落ちてくる。前を見ても後ろを見ても、絶景であることに変わりはない。
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| 中央に見えるのがバルティット・フォート。手前はホテル群(左)。ラカポシは標高7788メートル(右) |
●進歩的なイスラム教徒

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この辺りに住んでいる人たちはイスラム教徒の中でも少数派のイスマイリ派といい、これまで抱いていたイスラム教徒のイメージからすればすごく進歩的だ。マルベリーの実で作った焼酎を堂々と飲んでいる人たちもいる。この連中に「サウジのメッカに巡礼に行ったことある?」と聞いたら、プッと吹き出された。お祈りは1日に2回しかしないという。「イスラム教徒は1日5回お祈りをするって聞いているけど」と言ってやったら、「狂信的なスンニ派の奴らは確かに5回祈るけど、シーアはもっと少ない。3回ぐらいかも。イスマイリは2回でいいんだ」と言われた。本当かな? |
| 土産物屋の店先で機を織るおじさん |
ちなみにスンニ、シーア、イスマイリの3派を見分ける方法を教えてもらった。イスマイリはひげがちょぼちょぼ程度、シーアは5センチぐらいでスンニは20−30センチぐらいに伸ばしているからすぐ分かるという。日本では「シーア派=過激」というようなイメージがあるけど、彼らによると「スンニの方がずっと保守的でおっかない」んだとか。
イスマイリ派の人たちの信仰の対象はアガ・カーン(偉大なる長老)4世のように見えた。レストランやホテルなど、あちこちににアガ・カーンの写真が貼ってある。このアガ・カーンはフランスに住んでいるというが、おそろしく裕福で「アガ・カーン基金」など数々の慈善団体を運営し、パキスタン北部にたくさんの学校や病院を建てているとか。意外なのは、このアガ・カーンが女の子の教育に力を入れていること。もし、男の子と女の子が1人ずついて、1だけ人しか教育を受けさせることができない場合、女の子を教育するようにというのがアガ・カーンの教えらしい。イスラム教の偉い人がそんなことを言うなんて全く知らなかった。そういえばフンザやパスーでは1人歩きしている女性を見かけたし、向こうから話し掛けてくる女性もたくさんいた。
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| ラワルピンディやラホールといった大都会では女性が1人で歩いているのをまず見かけない |
●長谷川メモリアル・スクール
「あんたは日本人だろう。うちの息子はハセガワ・メモリアル・スクールに行っているんだ」。フンザに到着した直後、通りすがりの親父にこう言われてうろたえた。「えっ。ハセガワ・スクール? なにそれ?」「なんだ、あんたチュネオ・ハセガワを知らないのか。日本の有名なアルピニストだ」「登山家の長谷川恒男? うん、知ってる。日本ではすごく有名だったから。でも事故でかなり前に死んでしまったはずだけど」

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話しているうちに分かってきた。長谷川恒男は1991年、フンザに近いウルタル峰Uで雪崩に巻き込まれて死んだ。その時にフンザの人たちが捜索活動に協力したとかで、未亡人の長谷川昌美さんが個人でお金を集め、恩返しとして学校を建てたという。全く知らなかった。その後も毎日、何人もの村人からハセガワ・スクールの話を聞き、「ぜひ見学に行くといい」と言う人もいたので、そんなに簡単に入れてもらえるのだろうかと思いながら、村の奥にあるハセガワ・スクールに行ってみた。 |
| 長谷川メモリアルスクールの生徒たちと用務員?のおじさん |
校門は閉まっていたけど、のぞいていたら用務員さんみたいな男性が出てきて招き入れてくれた。校舎の中に入ってもいいと言う。中に入ると、長谷川恒男の大きな写真が廊下の真ん中の天井から下がっている。できたばかりなのか、校舎は中も外もきれいだ。校舎の入り口右側にある事務所から男性が出てきて歓迎してくれた。授業中のようだが、校内を案内しようといって、職員室から若い女性を連れてきた。彼女はアクタル先生といい、案内役になってくれた。
この学校は日本でいう小学校と中学校の課程があり、生徒は420人もいる。中学最上級生が2001年に進級するのに伴い、高校課程の授業も始まる。教師も25人いるという。どこから集めてきたんだろう。設備もばっちり整っている。理科の実験室は2つあるし、図書室には英語の百科事典がずらりと並んでいる。そればかりかパソコンを5台備えたコンピューター室まであった。フンザに電気が引かれたのはそれほど前のことではないというのに。「私は東京で育ったけど、小学校の設備はこんなに良くなかったわよ」と言ったら、アクタル先生は静かに微笑んでいた。
パキスタンの山奥にもかかわらず質の高い教育を提供しているため、人気は高いらしい。ウルドゥ語など4科目で入学試験があり、40%が合格ラインになっているという。スクールバスを使って遠くから通っている子供もたくさんいるそうだ。
こんな学校を作ったなんて、長谷川昌美さんのバイタリティには心から敬服する。運営を続けていくのはさらに大変なことだろう。校舎の中にある募金箱に心ばかりの寄付をさせてもらい、ゲストブックに記帳をして校舎を出た。女の子たちが私の回りに集まってきて、新聞で作った袋を差し出した。中に入っていたのはパコラ(野菜の天ぷらみたいなスナック)。「どうぞつまんでください」という。ありがたくいただいた。
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| 小学校の教室内 |
その日、また村人から話を聞いた。「お金を落として行ってくれる観光客だって有り難いけど、フンザの将来を長い目で見れば、子供の教育の方がはるかに大切だと思う。だから日本人はフンザでは一番歓迎されているんだ。我々にとって日本人はビッグブラザーなんだよ」。これまで海外で「日本人を好き」という人にはたくさん会っているが、その理由を勘ぐると『金離れがいいから』とか『女の子が軽くて引っ掛けやすいから』とかいう侮蔑を込めた賞賛であることも多かったように思う。でも、フンザでは日本人への純粋な好意が伝わってきて、こそばゆくも幸せな気分になれた。
日本に帰ってきてから知ったのだが、長谷川恒男は生前から「フンザに小学校を作りたい」と言っていたそうで、昌美さんはその遺志を継いだことになる。開校は1999年4月。→7ギルギットから平地へに進む
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