らくだジャーナルTOP旅のよもやま話目次>その3.20年ぶりの再会
     
その3.20年ぶりの再会
     
     
 20年ぶり(正確には21年半ぶり)にビルマに行った。主な目的は、犬に噛まれた私(詳しくは2.ビルマの犬の巻を参照)を治療してくれたお医者さんを探してお礼をすることだ。覚えているのはタンテーという町だったことと、お医者さんの家がバス(というか乗り合いトラック)乗り場の近くだったことだけ。それでも、医者なんてそんなにいないだろうからすぐに見つかるに違いないと自分に言い聞かせてラングーンを出発した。
ラングーン駅近くの大通り。一番高いビルが「サクラタワー」。その左隣がトレーダーズ・ホテル

 まず、ラングーン川の反対側に渡る。20年前は手漕ぎの渡し舟に乗ったものだが、そんなものは廃止されていた。というか、見ていると川を渡る船はどれもエンジン付き。しかも、外国人が乗れるのはいっぺんに何百人も乗れるフェリーになっていた。外国人料金で往復2ドル。別室で切符を買う。手漕ぎの渡し舟に1チャット未満で乗った私は生きた化石か? 20年という時の重みを感じる。まあ、ビルマの平均寿命は50歳代らしいので、私はちょっとしたおばあちゃんの範疇に入るのだろう。複雑な気分だ。

 20分で対岸のダラーにつく。船着場のところに乗り合いのジープやトラックが停まっていて、どうにかタンテー行きのジープを見つけることができた。助手席に乗せてもらえた。昔は舗装していないホコリっぽい道だった記憶があるのだが、さすがに20年の月日を経ただけのことはある。道路の真ん中は1車線分ぐらいが舗装されていて、舗装の状態はともかく対向車とすれ違わなければかなり快適だ。ダラーを出て10分もしないうちに、あたりの家はほとんど掘っ立て小屋になる。首都ラングーンには「サクラタワー」なる高層ビルさえあるというのに、10キロも離れていない郊外では竹を編んだだけの掘っ立て小屋で人々が生活している。

ラングーン対岸のダラーに渡るフェリー

 50分ほどでジープが停まり、乗客が降り始めた。ここがタンテーだという。ホコリっぽい町なのは昔と変わっていない。それにしても人が多い。昔はもっと田舎の村って感じだった。それに今じゃ外人見物をしようと子供があとをついてくることもない。昔は20〜30人の子供を引き連れて歩いたもんだ。

 あたりを見回しても何も覚えていない。英語でRestaurantと書いた食堂があったので、とりあえずそこに入って冷たい飲み物を頼む。ガイドブックの末尾にあるビルマ語会話集を見せて「医者はどこですか?」と尋ねたら、店の人と客を巻き込んでみんなで相談が始まった。少し英語を話す人がいて「病院だったら、ここをまっすぐに行って…」と言う。違う。私が探しているのは自宅を診療所にしているお医者さんだ。彼を遮るように「病院じゃなくてドクター、ドクター。この近くのはず」と言ってみる。どうしてドクターを探しているかまでは、いくら説明しても分かってもらえない。そりゃそうだよな。
タンテーへの道。このあたりは舗装もしっかりしていて快適

 ビルマ語の「近い」を一生懸命に指差した結果、近くの診療所を教えてもらう。サイカー(サイクルリキシャー)のお兄さんがタダで乗せていってくれた。着いた途端、お世話になったところじゃないことが分かってガッカリ。でも、町内の同業者の動向を何か知っているかもしれない。お医者さんは食事中だというので門の外で待つ。

 しばらくして出て来たお医者さんはやはり違う人だった。中に入るように言われ、診察室で人探しをしていることを一生懸命説明する。お医者さん「それじゃ、足をみせなさい」。えっ、違うんだってば。「あの〜、犬に噛まれたのは20年も前の話なんです。その時に治療してくれたお医者さんを探しているんです」と必死に説明したら、驚いた顔でしげしげと私を見た。

 「そんな昔の話だったら、私じゃなくてほかの医者のところに行った方がいい」と言う。場所を聞いたら、さらにバス乗り場から離れていくが、素直にサイカーに乗って教えられた医者のところに向かう。目指すところじゃないのは入る前から分かった。ガッカリ。なんの手がかりもないのに「どうにか見つけられるだろう」とかなり甘く考えていたことをあらためて思い知らされる。中に入って声を掛けると、やはり全然違う医者が出て来た。タンテーで開業したのは8年ほど前のことだという。できる限り詳しく事情を説明し、「もっと前から医者をしている人をご存じないですか?」と食い下がる。

私の乗ってきたジープがタンテーに着いたところ

  お医者さんは「それにしても物語みたいな話だねぇ」と言ってしばらく考えてから「その医者は英語を流暢に話す人だった?」と聞いてきた。う〜ん、その当時の私は英語がほとんど話せなかったから、誰でも流暢に話しているように聞こえた。メガネをかけていたことは覚えている。そしてお医者さんの家がバス乗り場にかなり近かったのも間違いないと話した。

 聞いていたお医者さんは、「バス乗り場に近かったんだね?」と確認したうえで奥さんを呼んで来た。奥さんのお姉さんがやはり医者と結婚してこの町に住んでいるという。そのだんなさんは数年前に亡くなったが、バス乗り場の近くの開業医だったという。直感した。その人に違いない。しかし、何年か前に死んでしまっていたとは。もっと早く来なかったことが悔やまれてならない。とにかく亡くなったお医者さんの奥さんを呼ぼうという話になり、使いの人が家まで呼びに行った。
一番左が私の探していたお医者さんの奥さん。一番右が探し人を見つけてくれたお医者さん、隣は娘さん、奥さんの順。

 20分ぐらいだっただろうか、女性ばかり3人が入ってきた。若い女性が2人、50代とおぼしき女性が1人。その女性は、犬に噛まれた日本人の女性旅行者がやってきて、医者をしていた自分の夫が治療したことを覚えていた。というよりも、彼女も手伝いの看護婦としてそばにいたという。私は奥さんのことを全然覚えていなかったのに。若い女性2人は姪御さんで、英語をあまり話さない奥さんと私との間の通訳を務めてくれた。

 彼女はとにかくびっくりしていた。ガイドブックに「ヤンゴン近郊の町」として出ているとはいえ、外国人観光客がそれほど来るとは思えないような田舎町。そこへいきなり「21年前に犬に噛まれた時にお世話になったものです」と訪ねてくる人間なんて、ほとんどエイリアンみたいなものだ。話しているうちに、彼女が驚いているのは、私が訪ねてきたという事実よりも、助けてもらったことを21年間も忘れていないということなのだと分かってきた。その昔、いただいた抗生物質の飲み薬は瓶とともに私の宝物になっていることを話したら、涙を流して喜んでくれた。こっちも泣いた。お医者さん本人にも伝えたかったのに、時の流れは残酷だ。

 奥さんの家に移動することになる。サイカーで着いた家は確かにバス乗り場のすぐ近く。4人いる子供は誰も後を継がず、お医者さんが亡くなってから1階の診察室は使っていないそうでガランとしている。2階に招かれてビックリ。大型テレビの上にはDVDプレイヤーが載っていて、2歳になるという孫娘がDVDでアルファベットのお稽古をしている。かなり裕福な家なんだな。

20年前に私が治療してもらったのはこの家の1階だった

 だいたい、我が家のテレビは19インチだし、DVDだってパソコンについているだけで、テレビにはいまだにビデオがつながっている。お医者さんに会えたら渡そうと思って日本からポータブルラジオと浮世絵カレンダーを持っていったのだが、恥ずかしくなっちゃってラジオは渡せず、カレンダーだけあげた。もっと気の効いたものを持参すればよかったと後悔してもどうにもならない。

 数時間を昔懐かしい家ですごし、何か話しては泣き、次の瞬間には笑い、昔からの親戚と一緒にいるような錯覚に陥る。家族の写真を何枚か撮って満ち足りた気分でラングーンに戻る。とても喜んでくれ、本当に行って良かった。今回はちゃんと住所を書いてもらったから、日本に帰ったら写真や手紙を送ろう。

                

 話は終わらない。奥さんと20年ぶりの再会を果たした翌日から1週間ほどビルマ国内を旅して回り、ラングーンに戻ってきた。いよいよ明日は日本に帰国するという夕方、夫と一緒にラングーン川の夕日を見に出かけた。お医者さんの家に行ったのと同じ渡し船に乗って川の反対側に渡る。しばらくブラブラして写真を撮り、帰りのフェリーに乗ろうとフェリー乗り場に向かって歩いていると、若い男性があらたまった丁寧な英語で声をかけてきた。

 「少しお話してもよろしいでしょうか?」ん、なんだ?なんだ? 日本語を習い始めた人かな? それだったら夫に話しかけてもいいはずだから、アクセサリーか何かを売りつけようという人かもしれない。少し警戒していぶかしげに「何でしょう?」と聞き返した。そうしたら「あなたは先週、タンテーに医者を探しに行きませんでしたか?」と言う。たまげすぎて倒れそうになった。「な、な、な、なんでそれを…」などと口をパクパクしながら、『あたしって何でそんなに有名なの?』とかおめでたいことを考えていた。
ラングーン川の上からみる夕日

 話をよく聞いてみたら、亡くなったお医者さんの末の息子さんだった。私が先日会った従姉妹の1人と一緒にラングーンからタンテーに帰るところで、その従姉妹が私を見かけて「あ、あの人はこの間訪ねてきた日本人だよ!」と言ったので、人ごみを掻き分けて船着場まで追いかけて来たという。人口400万とか500万人とかいわれる大都市のラングーンで、こんな偶然もあるんだね。これも何かの縁だと感動した。見かけから想像すると、彼は私が犬に噛まれたころは赤ちゃんだったに違いない。

 彼によると、父親のお医者さんが亡くなったのは96年。それ以来、お母さんはふさぎこみがちだったけど、私が訪ねていったのを本当に喜んでいたそうで、すごく感謝された。私がいきなり訪ねていったことは、一族の間で大ニュースになっているとか。ビルマにも家族ができたみたいに感じ、なんだかとてもシアワセな私だ。ビルマの話はこれでおしまい。


らくだジャーナルTOP旅のよもやま話目次>その3.20年ぶりの再会