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その2.ビルマの犬
     
     
 ずいぶん無謀なことをしてしまったと今でも深く反省しているのは、2回目の海外1人旅で行ったビルマ(現ミャンマー)でのことだ。夜間外出禁止令が出ているのを知らず野宿に挑戦し、挙句の果てに左足のふくらはぎを犬にガブリと噛まれた。傷跡はずいぶん薄くなったけど、今でもしっかりと残っている。 

 最初の東南アジア旅行だった。バンコクからラングーン(現ヤンゴン)に飛ぶと、そこは別世界。車はほとんど走っていなくて、信号機なんて見かけない。片側3車線の道路を1車線ずつそろりそろりと渡っていたバンコクに比べると、おそろしくのどかなところだ。みんな腰巻(男性用はロンジー、女性用はタメインという)姿で、のんびりと歩いている。外国人観光客は珍しいのか、「うちで食事をしていきなさい」と招かれることも多いし、親日的な人もかなりいる。

 私はすっかりくつろいだ気分になり、『この分なら、そこらへんで寝ても盗難やら暴力事件に巻き込まれることはまずないだろう』と、野宿することにした。当時はアウン・サン・スー・チー女史もまだ帰国していなくて、ビルマは世界的に全く注目されていなかった。だから夜間外出禁止令が出ているなんて、夢にも思わなかった。公園で適当な場所をみつけ、寝袋状になったユースホステル用のシーツを広げて寝ていたのだが、しばらくしたら腰巻姿の男性2人がやって来て、起こされてしまった。英語を話さない人たちだったので、何を言っているのか分からない。 

ラングーン市内で見かけた女の子。インド系?

 「ついて来るように」と手招きされたときは、一瞬『やばいことになったかもしれない』と思ったけど、彼らが連れて行ってくれたのは公園内の東屋だった。「ここで寝なさい」とジェスチャーで言う。ここなら屋根の下で眠れるし、ベンチもあるということらしい。しばらくすると、彼らは枕まで持ってきてくれた。感謝しながら寝た。深夜零時以降の外出禁止令が出ていることを知ったのは、日本に帰ってからだった。若気の至りというよりない。しかし、彼らはあの枕をいったいどこから持ってきたんだろう?

 その翌日、ラングーン川に客船が運航しているのを見て、乗りたくなってしまった。私は船が好きなのだ。行くあてなどない。切符を買うときに「3時間ぐらいで行けるところ」と言い、勧められるままにタンテーという村を訪れた。
 タンテーは普通の田舎町。外国人観光客が来ることなどないのだろう。船を降りて歩いていたら、子供が20人ぐらいついてきた。食堂に入ったら、遠巻きにして私の一挙一動を観察している。グリコのおまけみたいなプラスチックの指輪をプレゼントしてくれる子供もいた。最初は要人気取りでいい気持ちだったけど、いつまでたっても子供がついてくるので、うんざりしてきた。イラワジ川の支流を渡し舟で越え、さらに閑散とした集落に行ってみた。

ラングーンの対岸に渡ると掘っ立て小屋が数軒あるだけだった

 ほっつき歩いているうちに、暗くなってきた。ここならきのうみたいに邪魔されることなく、野宿できそうだ。適当なところを探していたら、近くの農家から女の人が出てきた。言葉は全く通じないけど、どうやら「うちで寝なさい」と言っているらしい。得体の知れない外人を泊めようなんておおらかだなぁ。遠慮せずについて行き、泊めてもらった。
 ラングーンでは、食事に招かれた家で「うちに泊めてあげたいが、外国人を泊めるのは禁止されているんだ」と言われたけれど、さすがにここまで田舎に来ると、そんな規則は徹底されていないようだ。

 翌朝になって目覚めると、この家の男性は既にどこかへ出かけた後らしく、若いママさん風の女性2人とたくさんの子供が残っているだけだった。トイレの場所を聞きたいけど、言葉が通じない。しゃがんでお尻をぽんぽんと2回たたいたら、片方のママさんが分かってくれた。家の外50メートルぐらいのところにある小屋を指差している。それからママさんは、その近くにあるドラム缶を指差し、顔をごしごしこするマネをした。なるほど、顔はドラム缶の水で洗うらしい。
 教わった通りにトイレに行き、ドラム缶の水に浮かんでいるボウフラをよけながら手と顔を洗っていたら、なんだか後ろから引っ張られるような気がした。そのときは、そんなに痛いと思わなかったのだ。振り向いて我が目を疑った。なんと犬が私の左足にパクッと噛みついている(無防備なことに、私はスカートをはいていた)。ギャーッという私の悲鳴を聞きつけ外に出てきた家族も、自分たちの飼い犬の仕業にびっくり。慌てて犬を追い払い、私を家の中に連れて入り、 傷口をきれいな水で洗って止血のために炭の粉を傷口に塗りつけてくれた。

私はこの日の午後の飛行機でバンコクに戻る予定だから、ゆっくりしていられない。泊めてもらったお礼として、はさみをプレゼントした。ママさんは2人とも、はさみを見たことがないらしい。きょとんとした目ではさみを見つめているだけ。持っていたノートの紙を切って見せたら「おぉ〜」と、家族全員から感嘆の声が上がった。ママさんははさみを手にして何を切ろうかと迷った挙句、硬貨を持ち出してきた。あわてて「ノーノー」と言ってやめさせる。今度は子供の髪の毛に目をつけた。「OK」とニッコリすると、ママさんも嬉しそうに笑った。
おめかしして整列した一家。右側が泊めてもらった高床式の住居

 次に家族の写真を撮りたいとジェスチャーしたら、みんなでいったん家の奥に引っ込んで、着替えて出てきた。男の子は帽子まで被っている。この人たちは、はさみを知らないのにカメラは知っている。なんだか不思議だ。ママさんの名前を聞きたかったのだけど、通じなくて諦めた。それでも、「ありがとう」と「さようなら」は通じたと思いたい。

 私の傷は炭の粉を塗ったぐらいじゃ血が止まらない。血を流しながらバスを探して歩いている私を見て、英語を話す青年が「どうしたんですか?」と声を掛けてきた。「犬に噛まれちゃって」と言ったら「すぐ近くにお医者さんがいるから、連れて行ってあげましょう」と、私を案内してくれた。
 そのお医者さん、私の傷を見るなり、“She needs …”と言った。よく聞き取れなかった。窓は見物客の村人が鈴なり。平和な田舎の村で、格好の見世物になってしまった。お医者さんは傷口を消毒した後、針金みたいな物を出してきた。そして、何がなんだか分からないうちに私の傷口をそれで縫い合わせた。もちろん麻酔なんてなし。犬に噛まれたよりも数倍痛いけど、ショック状態だった私は声も出せなかった。縫い合わせた部分の端に触ってみると弾性がある。やっぱり針金みたい。それからお医者さんは包帯を巻いてくれ、抗生物質の飲み薬3日分を入れた薬のビンをくれた。

 大胆なことに、私は旅行保険に入っていない。入っていたところで、当時のビルマでの怪我がカバーされたかどうか疑わしいけど。抗生物質はもちろん輸入品だから高いはず。缶入りのファンタが日本円にして450円で売られているのを見ていたから、結構あせった。ところが、お医者さんは「遠くから来た旅人が私の国で怪我をしたのだから当然のことをしたまで。お金は受け取れない」ときっぱり。そんなにお金に困っていないことを見せようというのか、引き出しの中から古びたカシオの電卓を取り出して、自慢するように私に見せた。日本だったら、こんな古い電卓、子供だって欲しがらないだろうという代物だった。不覚にも涙があふれてきた。それを見ていた野次馬もし〜んとしてしまい、すごくきまり悪い思いをした。

今でも宝物として大切にしている薬のビン

 私の悪い癖なのだが、気が動転してしまうと、お世話になった人の住所はおろか、名前すら聞くのを忘れてしまう。この時も、ラングーンへ向かうトラックバスの中で『しまった』と思ったときは後の祭だった。

 その日のうちにバンコクに戻り、翌日は予定通り日本へ向かった。家に帰ってすぐに病院に行った。なんでも消毒が十分でなかったようで、先生は針金を切って傷口をたんねんに消毒してくれた。看護婦さんが何人も私を見物に来て、「あなたがビルマで犬に噛まれた学生?」「色が黒いわね」「本当に日本人なの?」などと言いたい放題。1ヵ月余り病院に通ってようやく傷口はふさがったけど、今でも傷跡は残っている。ひょっとすると、これは犬に噛まれた傷じゃなくて、針金で縫った傷なのかもしれない。妙にいとおしい傷跡だ。
 ビルマのお医者さんからもらった抗生物質は全部は飲まずに終わった。残っている分はもらったビンにいれたまま、私の宝物のひとつになっている。あのお医者さんと家族は今ごろどうしているのだろう。もう一度訪ねてお礼を言いたいと思いながら、ついつい行ったことのない国を優先して旅しているため、いまだに再訪を果たせないでいる。

【追記】2004年11月、なんと21年ぶりにビルマを再訪しお世話になったお医者さんを探しに行った。続きはその3でどうぞ!


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